❇︎❇︎❇︎❇︎ 断片小説25「あの夜・決壊」❇︎❇︎❇︎❇︎
「あなたなの?楓を、撃ったのは」
拘束し、問い詰めた若い警察官の、浅く速かった息づかいは、ヒュッとわずかな音とともに吸われたまま、止まった。そして、おそらく恐怖と緊張で、こわばっていた全身の力が、奇妙に抜けてゆく。百合は、ほんのわずかに腕の力を緩め、重ねて問うた。
「あなたなのでしょう?楓を、撃ったのは」
百合は待った。その、震え始めた唇から、出る言葉を。聞きたくなどないけれど、期待した答えを。
しかし、
「……当たってたんですね……」
漏れ出る息のように、虚ろな声が言った。
「やっぱり……僕が…撃った弾は、その子に…当たっていたんですね……」
百合は腕をほどき、警官の前に回った。妙にぎらついて、見開かれた目は、どこも見ておらず、細かく震える浅い呼吸に喘いでいた。
「知らないの?」
百合の問いかけに、もう彼は答えられそうもない様子をしている。
「そう」
と、百合は溜息に言った。
「知らないのね」
やはり、そういうことなのだ。この男を追求したところで、楓の「仇」に、辿りつききれるはずもなかった。それにしても、なんという段階で、事は秘されている。百合は、はあっと息をついて、土間の上がりはなに腰を下ろそうとした。そこへ、
「ゆりちゃん、どいて。あたしがやる」
部屋の奥に隠れていたはずのサツキが、ナイフを手にして飛び出してきた。
「だめよさっちゃん」
百合は、ナイフを握ったサツキの腕を取って制する。
「なんで!?こいつが楓を撃ったんでしょ!?」
「ええ、そうね」
「だったら!」
「でもだめよ」
「どうして!?依頼のない殺しはしないから!?」
「ええ、そうよ」
「でも許せない!だってこいつが楓を!」
「わかってる!でも!」
百合は珍しく、大きな声でサツキを制した。百合はサツキを睨むようにして、静かに言った。
「彼は知らないわ、なにも」
いつしか二人は、両腕を取り合っていた。百合は、サツキの腕を優しくひとさすりした。
「彼は、なにも知らない。それに、見て。こんな状態の彼を殺すことには、なんの意味もないわ。私たちが辿りつきたいところは、このずっと先にある」
百合は、じっとサツキの目を見る。サツキは、見開いた目に、涙をいっぱい溜めて、
「でも、こいつは、百合ちゃんの顔を見た」
と、消えそうに言った。
「こいつをここで殺さないと、百合ちゃんが危ないよ」
震える涙声のサツキに、百合は、ふっと笑ってみせた。
「大丈夫よ。私は大丈夫。だってほら、見て。こんな情けなく放心した彼に、何ができる?それに、彼がここで死んだほうが、私たちは危ない」
でも!と、なかば喚くように言ったとたん、サツキはぽろぽろと涙をこぼした。
「百合ちゃんは甘いよ!だって、何かあったらどうするの!?こいつのせいで、百合ちゃんに何かあったら!あたしは許さない!」
「大丈夫よさっちゃん、落ち着いて」
「落ち着いてなんかいられないよ!あたし嫌だよ!?それに、もしかしたら、おひさまだって、なくなっちゃうかもしれないんだよ!?」
サツキの叫びが、台所の冷たい闇に反響した。
百合は、少し沈黙した。そして微笑んで、首をかしげ、掬い上げるようにサツキの、涙に溺れた目を見上げて、
「そうだよ」
と、静かに言った。言ったとたんに、涙が溢れた。
どちらからともなく、サツキと百合は抱き合っていた。泣きながら、すがりついてくるサツキを、百合は抱きとめていた。
「そう、私たちは、終わるの。いいえ、ほんとうは、始まったときから、私たちは終わっていたのよ」
涙は、ただ、さらさらと流れた。いったい私は、いつから泣いていない。いや、こんなふうに涙を流したことなど、一度もない。
「ゆりちゃん……なんで……そんなこと言うの」
そこに怯えさえ見せて、腕の中で泣いているサツキは、かつての小さなさっちゃんだった。百合はサツキを、さらに引き寄せて抱いた。
「いいの?」
と、サツキの声が、微かに責める。
「ゆりちゃんは、それでいいの?おひさまが、なくなっちゃっても……」
その問いに答えることは、なんて難しい。
「さっちゃん」
ただ、呼ぶ。さっちゃん、と、数度。呼ぶほどに、愛おしく、ああ、美しかった、と思った。美しい幸せだったのだ、あの日々は、と。
「ごめんね」
広く深く吐く息のように言った言葉と、混ざるように涙は、とめどなく流れた。
「ごめんね、さっちゃん。私が悪い」
さらさらと流れる涙とともに、言うつもりのなかったことも、さらさらと溢れる。
「私がさっちゃんを、こんなところへ、連れてきてしまった」
言えずにいたのだ、と思った。
「ちがうよ」
と、サツキが小さく言う。
「ゆりちゃんがいなかったら、あたし……あたしのせいで、ゆりちゃんは……」
ああ、またさっちゃんは、自分を責めてしまうのだ、と思った。
私たちは、終わらなければならない。
「終わろう、さっちゃん」
口にして、結末の近さが、現実味を帯びた。
「いやだよ……いやだよゆりちゃぁん」
泣きじゃくるサツキの頭を、百合は柔らかく抱いた。
「大丈夫。大丈夫だよ、さっちゃん」
そしてその、丸めた背中を、優しくさする。もはや涙が流れ続けることが、心地よくさえあった。その感覚に身を任せたまま、百合はまた、穏やかに微笑んだ。
「ずっと、一緒にいるからね。みんなで、ずっと、一緒にいようね。そして、終わらせよう」
柔らかくサツキを抱きながら、ふと闇を見据えて、百合は静かに、しかし強く、呟いた。
「でも、それは、今じゃない」
サツキをそっと離し、その両肩に、掌を熱く置く。涙は嘘のように止まった。百合は決意を、微笑みに込めて言った。
「行こう」
リビングに続く階段のかげに身を潜めていた葵は、
「行こう」
と、百合が、いつものように、いや、いつもと違って強く微笑んで言ったとき、繋いだスマホを握り直した。声も出ず、ただただ流れ続けていた涙を、手のひらでぬぐった。スマホの向こうでは、きっとすーちゃんも泣いている。かすかにその気配を感じて、スマホを胸に抱く。
フジには内緒ね、と、百合さんが言ったから、身を隠したホテルで、フジをすみれが睡眠薬で寝かせた。
眠るフジの傍に、きっと静かに座って、すーちゃんは静かに泣いている。
百合は、サツキの手から取ったナイフで、警官の拘束を切った。そして、
「もうあなたに用はないわ」
と、冷たく言った。
「……どうして……」
と、警官が口を開く。
「どうして……殺してくれないんですか……」
震えた掠れ声で言う警官を、百合は黙ったまま横目で見る。
「殺せば、いいじゃないですか……ぼくが、あなたたちの大切な仲間を、殺したんですよ……?」
警官は、拘束を解かれても、だらりと座ったまま、放心して、涙なのかなんなのか、目だけは妙にぎらついて見開いて、百合を見上げた。百合が、ヒールの踵を鳴らして、警官に近づく。そして胸ぐらを掴むのだろう、と、葵は思った。しかし、触れず、真正面から顔だけを、目を、その1センチの距離に詰め、一言一言を噛み潰すように、おそろしく静かに、百合は言った。
「殺してなんかあげない。私たちの楓を、殺したのだということを、背負って生き続けなさいよ」
葵はまた、スマホをぎゅっと握る。
「行こう」
と、もう一度百合は行って、踵を鳴らして、土間を、外へ出ていった。
葵は、そっとリビングへ出て、座り込んでいるサツキの背中へ、そっと声をかける。
「サツキさん……」
するとサツキは、ばっと立ち上がって、警官のほうへ向かう。葵は、慌てて追った。
「出てってよ」
と、サツキは乱暴に警官を立たせた。
「出てって。ここは、あんたなんかがいていい場所じゃないの。出てって。はやく!出てよ!」
警官を追い立てるサツキと、追われるままにふらふらと外へ出る警官について、葵はおろおろと外へ出た。
振り返らずに去る百合とサツキを追い、しかし葵は、店が見えなくなる前に振り返る。青白い街灯の光にかすかに浮かび、勝手口の外に立ち尽くす警官の影。唇を噛んで背を向け、足早に歩き出すと、また、涙が溢れた。
]]>風太は、音を立てないように花屋の裏口のドアをあけ、暗い店内に入る。ひんやりとした土間は奥へ続き、その先に青白く、台所が薄ぼんやりと光っていた。風太は、一足一足慎重に、歩を進める。息が浅い。
暗い土間の路を抜け、台所へ出たところで、
「こんばんは」
左の耳元で、穏やかな女の声がした。
身が凍りついた。
ふわりと舞うように、白いショールを翻して女が後ろに回り込んだかと思うと、動く間もなく両手が後ろで拘束された。
「どうぞ、座って」
拘束した手を引かれ、台所の隅の椅子に座らされた。なぜ、体がこうも簡単に動かされてしまう。風太は、逃げなければ、と、思うものの、ただ呆然とした。
「ごめんなさいね。誘き寄せるような真似をして。」
背後から、穏やかに話す女の声。やられた、と思った。動くなよと、言ったコロバさんの顔が浮かぶ。
「あなたと、話がしたかったのよ。私が」
女は、風太の真後ろに立っていた。首筋が粟立つ。
「あの…あなたは…」
やっと発した言葉は、我ながら間抜けだった。
「そうね。あなたたちにわかりやすいように言うなら、ここのボス」
粟立つ風太の首筋に、女は背後から冷たい両の指を這わせた。女の左手が、吸い付くように喉元に回り、頭から背が、女の胸に押しつけられ、さらに身動きが取れなくなった。脂汗が滲んだ。
「見て」
女は、風太の目の前に右手をかざし、耳元に囁く。
「見て、この指輪の、中を」
「へ…?」
「見える?マリアの姿が」
女の小指の、暗い中にも光る小さな指輪には、緑色の偏光の中にマリア像が見えた。
「私の手が届くのなんて、ほんのわずかだけれど、私は女の子たちの、聖母でありたいと思っているの」
「そう、なんですね……」
間抜けに相槌を打つ。女の顔が、見えないのが怖い。穏やかなままなのに、その声は風太を責め始めていた。
「その、私が大切にしていた女の子の中にね、楓という子がいたの」
「い、た……?」
「そう」
女の右手がそのまま、風太の頬を這い、頭が腕に絡め取られて、やんわり首を絞めるように、さらに強く胸に押しつけられ、頭を固定される。
「いいこと教えてあげましょうか。このマリアの指輪からはね、毒の針が出るの」
「え……」
左耳の後ろに、小さな金属の感触がし、身がすくんだ。
「5年前よ」
「5年…前…?」
5年、という言葉が、胸をちくりとかすめてゆく。
「そう、5年前」
ひそめた女の声が、恐ろしく、低く、重く耳から入ってきた。
「5年前、私たちの楓は、警察官に撃たれて死んだ」
死、という言葉が、頭に刺さった。
「その警察官が誰なのかは、いまだにわからない。事件自体、無いものとされたわ。でも、楓の弟が、その警察官の姿を遠目から見ている。あなたの姿に似ていると言ってるわ」
女の冷たい唇が、かすかに、耳に触れた。
「あなたなの?楓を、撃ったのは」
耳鳴りを感じ、視界がわずかずつ、暗くなっていった。
勝手に動くなよ、と、コロバさんに言われたのは何度目か。そのたびに、はい、と、うつむいて小さく答えた。
じっとしてなどいられない。
風太は、一人で「花屋」を張った。
失敗を取り返すには、動くしかない。
そう、強く思っていた。
「花屋を張っても無駄だ。我々と接触した以上、向こうは警戒している。本拠地に戻ってくるほど、奴らは阿呆じゃない」
コロバさんは、俺の考えなど、お見通しなのかもしれない。それでも、奴らが阿呆じゃないとしても、手がかりは「そこ」しかないじゃないか。
花屋は、いつ行っても静まり返り、中にも人の気配はまったくしなかった。車もない。コロバさんの言う通り、無駄なのかもしれない。
自己満足だし、馬鹿なのはわかっていた。でも、そうせずにはいられなかったのだ。
道を挟み、花屋の表のシャッターと、裏へ通じる軽自動車が一台ギリギリ通る入り口が見える塀の陰に身をひそめ、まるでただ時間をやり過ごすような張り込み。何日、こうしているだろう。寒いほどの気候ではないのに、妙に身の内が震え、足元がずっと落ち着かなかった。
変化など、来ない気がしていた。古びた商店街は、いつも、穏やかに静まり返っていた。挽回したくて、何日もここに来てしまっている。一方で、何も起こらないでほしいと、思ってしまっている。認めたくない怯え。愚行だ、と、もう何度目かの自己嫌悪に陥ったそのとき、ふと、気配を感じた。
緊張して身を潜め直し、花屋のほうを伺う。人影があった。跳ねるように動く、小さな女が、きょろきょろと通りの人影の有無を伺うようにしている。あの女だ。港の倉庫で、銃を構えた風太に、おちょくるように近づいてきた、ふざけた若い女。風太の手元と、舌打ちになるかならないかに、口元に力がこもる。女は、よし、と聞こえてきそうに頷いて、また跳ねて、店の裏へ回っていった。ふざけている。見回しても、他に人影はない。風太は、女を追って、花屋の裏口へ向かった。今日は、銃はない。持っていたところで、どうせ撃てないのだ。逆に銃さえなければ、あんな小さな女に力で負けるわけがない。
裏口に、女が入ってゆくのが見えた。それ以降、花屋はまた静まり返る。アルミのドアのノブにそっと手をかけ、一瞬ためらい、そのあと、フッと短く息をついて、風太は、音を立てないようそっと、ノブを回した。